ナゼ朝日は自社の誤報や間違いを認めないのか?


これはみんなが抱く疑問だと思うんだよね。喩えば最近で言うと’朝日社説(4/4)に反論した安倍官房長官 朝日と産経が報じるが内容が正反対 ’(murmur様より抜粋)とか。


これはどうしてこういうことになったかっていうと朝日や読売ってのはもともとゴシップやなんかを専門にしてた小新聞上がりなんだって言う歴史を頭の隅においておかなきゃなんないって思うのです。
『ネットは新聞を殺すのか?』&『新聞のなくなる日』日経BP社(参照)にちょっと載ってる

実は日本の新聞には顔がないんです。私はこの問題に相当悩まされました。絶望したり、あきらめたり。なぜ、日本の新聞が信念を持った発言をしないのかというと、それは歴史的な問題なのです。明治時代に「大新聞(おおしんぶん)」と「小新聞(こしんぶん)」という言葉がありました。これは発行部数を指す言葉ではなくて、社論という顔があるかどうかなんです。

 大新聞が政論を漢文調で主張する硬派であるのに対し、小新聞は下世話な世相や事件を取り上げた。発行部数は小新聞の方が多かったんです。現在残っている全国紙は小新聞の系統なんですね。大阪の朝日新聞がその歴史を作ったといわれていますが、多数の人に売るために客観主義を標榜した。だから、顔がないというのは明治から始まっているのです。

 朝日新聞の有名な記者だった扇谷正造さんが「新聞を社会の木鐸と思っちゃいかん。新聞は社会の鏡だ」といいましたが、我々は国民の大多数、最大公約数を頭に置いて記事を作りなさいという教育を受けてきた。顔がないのもその結果なのです。


要は朝日が偏向報道誤報を訂正しないのもこの辺の小新聞イズムが生きてるからなんじゃないかと、そう思うわけですよ。


でもこの引用記事の最初の方に書いてあるんですが今の時代そんな自分勝手な記事は誰も求めてないわけですよ。ネットで新聞の報道を較べているサイトが沢山あって新聞記事が全然客観的じゃないのがバレちゃってるわけだから、そんな小新聞時代の伝統なんていつまでも持ってちゃイカンと思うわけです。


朝日がしっかりした自由主義者の御用達新聞になりたいのなら自分の立場にしっかりと責任をもって報道をしないといけない。でも今の朝日は実質日本の中国共産党支部も兼ねてるわけだから、一応立場は明確か(責任は持ってないけど)。朝日、中国といえばウィキ様にはこんなことが書かれていた↓

言論の自由、取材の自由がほとんどない当時の中国に、朝日新聞だけが特派員をおいていることに、内外から批判が集まったという。この点を、1970年10月21日、日本新聞協会主催の研究座談会『あすの新聞』の席上、広岡知男朝日新聞社社長は、こう答えており、公正な報道を行わず、中国政府の意向に沿った記事を書くことを公言している。

報道の自由がなくても、あるいは制限されていても、そういう国であればこそ、日本から記者を送るということに意味があるのではないか」(『新聞研究』より)
さらに、「私が記者に与えている方針は『・・・こういうことを書けば、国外追放になるということは、おのずから事柄でわかっている。そういう記事はあえて書く必要は無い・・・』こういうふうにいっている」(同『新聞研究』より)


それでこのあとウィキには「その後○○年にこの発言は撤回された」とは書いてないから、多分今もこの立場は健在なのだろう。ただ問題なのは紙面や社説を読む限り中国が関わっている問題では(イランとかダルフールとか)全て中国にいいような社説を打ち出してしまうこと。

朝日が本当の自由主義へと進むのはいつのことになるやら…まあそれはいいとしてとりあえず自社の記事には責任を示さないとこれから生き残っていけませんよっていうこと。


あとどーでもいいけど読売って朝日と違って存在感無いね。